車上生活で本を書く 青井硝子のケイトライフ

軽トラック上に家をDIYして車上生活する方法や、住所不定のままお金を稼ぐ方法、小説家になる方法などを記録していきます。普段は川原でBライフ的田舎暮らしをしたり、都会の駐車場にモバイルハウスで生活してます。ノマド生活や肩肘張らない起業に興味ある方はぜひ。

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新世界における地獄と辺獄について


 最近の小説の傾向として、「世界がベリーハードモード」ってのがあるらしい。


 どうもこれは世相を反映するとのこと。
 たとえば高度経済成長期の本は、スライムを倒してレベルが一から順に上がっていく「イージーモード:魔王と勇者モード」が多く売れる。
 逆に不況下で出版された本は、町からはじめの一歩を踏み出したら、というかヘタしたらスタート地点の町中でスカルドラゴンが襲ってきて死亡or瀕死or身近な人が代わりに死ぬ「ベリーハードモード」が売れるらしい。
 たとえば進撃の巨人は後者だし、ドラゴンボールは前者だ。

 いまさら「魔王と勇者モード」の話を書いても受けが悪いし書きたくないので、「ベリーハードモード:新世界モード」について考察してみた。


 ベリーハードモノの話を書くにあたって、どこまでベリーハードにすればいいのかという疑問がまず湧いてくる。
 書いてみたらわかるんだけれど、ハードさの違いによって培われる物語がけっこう違ってくるのだこれが。
 鋭い人だと出だし読んだだけで、それがどんなハードさが紡ぎだす物語類型なのかというのを大体当てることができるそうだ。本当か?


 たとえば先週、下の2曲をPV付きで聞いてみたんです。








 この二つは物語を動き出させる動機、のような部分が似通ってはいるが、一方は社会主義体制に、もう一方は自由主義陣営に属している。

 それだからか知らないけれど、一方はどうしても許されない(自由主義陣営から見たらささいな)ことに涙を流しながら自分を貫こうとして傷だらけになっている。
 分かってくれない周囲の大人を柵越しに見ながら、彼女たちは離れていく。彼女たちを囲っていたはずの柵はもはやどちらを囲っているかわからない。
 いや、柵が旧弊や囚われの象徴だとしたら、後半から柵られているのは明確に大人たちの方だ。柵感パねぇ。マジ柵感パねぇ。

 対してもう一方は、許されないことをして牢屋にブチ込まれて様々な自由を奪われるも、心の自由を保っていれば自由だと言ってそれを証明してみせる。
 「ごめん聞こえない、クラブにいて踊ってるから」と電話に言ってのけるのが極めて象徴的だ。
 その後シャバに出た彼女は関係者も関係ない人もバッタバッタ毒殺しまくって過去との決別を図り、別の州に逃げて自由を獲得する。

 関係ない第三者から見たらどちらも地獄には違いない。
 けれども、この二つには「地獄強度」というべきものが違っている。


 「地獄強度」。 社会主義体制下でゲイやビアンを貫くのは想像するだにキッツいだろうと思う。おそらく彼女たちはバッドエンドを迎えるであろう、そんな演出をされているのもうなずける。
 これを見て私は、山に駐車して住んでいた時に「長く居すぎ」という良くわからない主観的な理由でおじいさんにガミガミ叱られたことを思い出した。あの時も私は荷物をまとめてその場を立ち去らざるを得なくなったのだが、不平不満を声高に叫んだところで聞き入れてくれないだろうことは容易に予想が出来た。彼女たちは声を荒らげて問題提起した点で私よりずっと偉い。けどどうしようもないほどにバッドエンドだ。地獄強度は高い。

 ただ、下の方はどうだろう。毒殺という社会的にどう考えても許されざる手段を使いこそしたが、彼女のその後をグッドエンドかバッドエンドか断定することはできない。どっちの可能性もあると思う。
 つまり、彼女は地獄にいながらにしてありとあらゆる手を使い、見事その地獄を脱したのだ。
 手段が辛うじて残されている、ということからみても、さっきと比べたらまだ地獄強度は低い。

 環境圧力の高さで物語が違う。
 ロシアでアメリカ式解決法を行おうものならその場で銃殺刑になりそうだ。毒と鉛玉でいったいどれだけの犠牲が出るやら。
 逆に、アメリカでロシアっ娘のようなことをしても、ヒューヒューと囃されて終わる。圧力自体が解消されてしまい、物語にすらならない。

 ところで昔、リンボというゲームにハマったことがあった。
 不思議な森で妹と生き別れてしまい、妹を探す為に森をさまよう。雲に喰われたり石に潰されたり歯車に巻き込まれたりして死に覚えながら、最後の最後で花と戯れている妹と出会うストーリーだ。
 クモの糸のように細い可能性ながらも、成功が見えている。
 そういった意味で「辺獄(リンボ)」と名付けられたのかもしれない。

 地獄強度が高すぎると、そこはまさしく「地獄」となって主人公たちは為す術もなくバッドエンドを迎える。
 しかし、地獄強度がそれよりもやや緩まると、一縷の望みが見えてきて「辺獄」と化す。主人公たちは数多の犠牲を払いながらもギリギリで生還する。


 これは感覚、あくまでも感覚なのだが、一時期の地獄めいた物語構造が、最近は辺獄に切り替わって来たように思う。
 依然として難易度はベリーハードではあるものの、物差しを変えたりコペンハーゲン的逆転ホームラン解釈をしたり、バグをついたり法に触れることをしたりそれをうまく隠したりしつつ、なんとかクリアできる難易度まで落ちてきたように思う。
 逆に見れば、私たちはそんな息苦しい世界や生き苦しいルールの下で人生ゲームしているのかとため息が出た。

 んで何がいいたいかというと、きっと、きっと次のヱヴァ新劇場版では辺獄に垂れる一本のクモの糸を掴んでくれると私は信じている! なあシンジさん!


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