青井のイクメン日記

まだ見ぬ子どものために環境を整えていこうという、気の早いブログ

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人生あがるって何よ

先ほどの投稿で、人生もう上がりと何気なく書いたけれども、これはかなり面白い認識じゃないかな。

書いた時点では、これは「すでに進むべき方角が決まり、それを支えるためのお金(将来にわたって稼げる可能性)も確保されている」という意味合いで書いたような気がする。
しかし、この認識は人によって違う。

たとえば東京には風呂なし二畳程度なら二万円で暮らせる場所がある。バイトが難なくできるなら、そこに行けば何不自由なく暮らすことができる。風呂は410円でいつでも入れるわけだし。
しかしこれで人生上がったと認識するかというと、少なくとも自分はしない。体を壊せば暮らせなくなるのは小屋暮らしでも一緒なのに、これはなぜだろう。

好きなことができない、というのは違う。たとえば自分は自然の中でわちゃわちゃしたり、DIYしたり、そういったことが好きだ。それは都心の2畳の部屋ではできない。でもそんなものはさくっと羽田に行って海外に飛び、そこらへんの田舎で一、二か月暮らせば満足してしまう程度の情熱だ。

田舎のアパートだったら3万でも借りられる。これでも問題なく暮らしていける人なら暮らしていける。
お金がたくさんあるorお金が稼げる自信がついたなら、月20万のマンションに暮らしていても人生上がったと認識するはず。

そう考えると、自分は将来への不安とか社会的な圧力に目を向けながら小屋暮らしを目指していた気がする。
これはあまり純な動機とは言えない。リトリートセンターを作るとも公言したが、それは仕事を作るという文脈の話だ。仕事を作るのと日々暮らしていくのは、その表現型が発生している大元の欲の種類に大きな隔たりがある。前者は自己実現や社会貢献的な、マズローでいうところのピラミッドの上のほうの欲求。後者は三大欲求を満たすという底辺の欲求。
自分は、三大欲求を永続的に満たす自信が非常に乏しかったのかもしれない。この自信が少しでもあるのなら小屋など作らず、田舎のアパートとか二畳部屋とかそういうもう少し出来合いの暮らしを選択するだろう。

人と話すと頭が痛くなる、バイトするとすぐ人中り(衝突するのではなく、譲りすぎたり気を遣いすぎてひどく疲れてしまう)する。こういうことが続いた。これは大きかった。

突き詰めると、どこから自分を支える資源を汲み出すか、という単純な問題に行き当たる。
社会から資源を汲み出すことが難しい場合、別のどこかから何とかして自分と自分の周辺を支えるだけの資源を獲得しなくてはならない。将来にわたって永続的に。

小屋暮らしはそれが自然から汲み出せる。
もちろん、様々なコツなどはいることがやってみてわかったけれども、それでも非常に性に合っていると実感した。先達の寝太郎さん(@mnetaro)に大感謝。

やがて新鮮な野菜と肉と、空気と水と、薪と風呂が手に入るだろう。まだ一年目ではなかなか難しいけれども、やがて。それが、自分にとっての「人生上がった」となる。少なくとも今そういう風に認識している。この認識は、ありとあらゆる面で出てきた余裕の発生源となっている。人付き合いも、仕事も、お金も、暮らしも。全ての面で。
そうなって初めて、今まで捨ててきたものがよく見えるようになった。
家庭だ。
配偶者だって子どもだって、軽トラ暮らしでは届かなかったものにリーチできるかもしれない。

自分は無が怖いので、必死に生の物語を紡ぐタイプのよくあるありふれた人間らしい。(だから、以下は自分にだけ適用される話として聞いてね)
結局のところ人は常に何かに酔っていないと生きていけない動物だということはこの三年でよくよく分かった。一人で小屋暮らししているとドーパミンドーズに偏ってしまいがち。これはあまり健康によろしくないので、伴侶がいるとこの小屋暮らしは完ぺきになる。
いろーんなものを摂ってきたけれども、結局はセロトニンドーズ、つまり愛が一番健康的で楽しい酔いだ。無を遠ざける。
できるなら、いつでも愛に酔っていたい。社会から資源を汲み出すことに失敗し続けてきた20代だったけれども、自然から資源を汲み出すことに長ければ、それは達成できると予感している。同じく自然から汲み出すのが好きな人と一緒に。

だから、子育てイクメンブログにした。
自分は無と付き合わず、虚無からうまく距離を取ろうと思う。











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